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太田宿

美濃国は、開幕当時大久保長安が奉行として治めていましたが、長安没後は尾張藩や幕府・旗本などが支配するようになりました。このうち落合宿から鵜沼宿までは十七世紀の初め頃に尾張藩の支配となりました。
太田宿は中山道の宿駅としての機能だけでなく、後に太田代官所が設置されるなど木曽川筋の軍事・政治・経済の重要な拠点として位置づけられたのです。
『中山道宿村大概帳』によると天保14年(1843)、太田宿の規模は、宿内の町並みが東から上町・中町・下町と分かれ、その長さは六町十四間(約680m)。

人馬継立問屋場は上町に1ヶ所、中町に2ヶ所ありました。本陣・脇本陣が一軒ずつ配置され、旅籠屋は20軒。高札場は下町にありました。戸数は118軒で、505人(男性259人・女性246人)が住んでいました。 宿高は凡そ1,939石で、多くの人々は農業や商いをかねて生活をしていました。農業 は五穀を主として季節毎に野菜を作っていましたが、畑より田の面積が多くありました。農業用水はなく、耕作は苦労していたようです。

岐蘇路安見絵図

 かくて弥二、きた八は、おほた川のわたしばにつきたるに、けさのあめよりみづまして、よけいのふなちんをとられければ。
狂    :「宿の名の おふた子あらばこの川の 浅瀬わたらん ぜにおしき身は」
まご   :「おまいさんとならバどこまでも ヨヱー ドウ ヱー このごつぽうめ、ひやくさんじやうのまめべえくらやアがつて、おんなうまアみると、てへこばかりはやしやアがつてどふしアがる。」
弥    :「きた八、ちよつぴりぐひぎまりハ、どふであらふ。」
北    :「おめへ、そふのんでばかりゐて、江戸へかへるのに、ちやんころハたりるか。」
弥    :「ハテたりてもたりねへでも、のまずにやアどうちうができねへ、てんどう人ころさずだ。ぜにがねへてつて人げんのひものができたためしハねへ、ヲイあねさん二ツばかりかけてくんな。」
じゅんれい:「じだかくや とちうつたびはゆくまゝの あしのおまめにひゝく、くたびれ チン。」
あとぼう :「あそこでのんでいるのをみたらのどがくびついてきた。」
かご   :「ときにあいぼう、だんなに、ちよつとたてゝもらふて、そこらで一ぱいきめるけ、山のかんからすとしよふじやねへか。」
たび人  :「まことん、かへりうまならふしみまでなんぼでゆくぞへ。」

わたしばにてよめる
俳 ほとゝぎす なくや太田のさゝ濁り
感和亭 鬼武
※解説については、佐光篤氏のご協力を得ました。